記憶違い

家族と記憶が違っていて、困った。

「うちの猫の一匹が、花の匂いがする」と以前確かにその人は言ったのだが、それを言うと、「違う、饅頭の匂いがする、と言った」という。

いやいや、確かに花の匂いと言った、フローラルな香りがするものなど、ないはずなのに、おかしいよね、と確かにその人が言ったのを覚えているのだが、その人は言っていないという。私はそれに、洗濯ものの匂いが移ったんだろうか、というような話をしたような気がするのだ。

 

困った。

 

そもそも何年も前の話だし、別に花の匂いだろうが、饅頭の匂いだろうが、至極どうでもいい話である。もめる理由もない。しかしその場でなぜか「言った、言わない」の話になり、「お前が悪い」「おかしい」という話になった。

 

なんでそんなことにこだわるのか、わからない。で、私の記憶力の問題にしてくるのがまた苛立たしい。

 

そもそもすべての言動を完璧に覚えている人など、いるのだろうか?

人に話をしているうちに、記憶が変化することもあるのだ。

 

別に録音をとっているわけでもないし、真相はわからない。そもそも、一度だけしかその話してないのか?というと、それも怪しい。

 

どっちも話していて、双方片っぽしか覚えていないとしたら?不毛な争いである。

そんなこと言ってたら、大事なことは記録に残しておかないとね、と言ったら、その人は日記をつけているから、とのたもうたが、それこそ怪しい。。

大事な話をするときは、双方で確認して記録を残して、署名でもしてもらうしか、手がない。

 

これが年をとったということなのだろうか。と言ったらまた怒りそうだ。

そうなんだ、〇〇ちゃんはそう覚えているんだね、で済ませたらいいのに・・・。

めんどくさい人である。

 

親が亡くなったら、この頭の固い人と二人でやっていかねばならないのか。

 

機嫌によって素直だったり、親切だったりするが、親切が過剰になると翌日にはひどく意地が悪くなることがある。自分だけが損をしている、と思っているようだ。

こちらからしたら、機嫌が悪くなるのがわかっているから、やってほしいことも黙って処理していることもある。水回りに水を跳ね飛ばして、拭いていないときがあったりするのだが。言い方に気を付けてないと、切れるから。

 

この人相手のときは、過剰な親切は断った方がいい。その時だけは、良かれと思ってにこにこしているんだけれども。あとで損を取り返しに来るから。それを自分でわかってないのが、面倒くさい。

 

私の言い方の問題でかちんと来ている可能性もあるが、こちらは一方的に「お前が間違っている」といいがかりをつけられている状況なので、必死に客観的に物事をみようとしている。そこんとこわかってくれ。。

貯水池にたくさん猛禽類がいた

地元のパン屋さんに行くためそこそこ長距離ドライブ。貯水池の近くなので、買ったパンを公園の駐車場に泊めて食べた。少し歩いてみようかな、と思ったけど、結構草深く暗かったので断念。その代わりダムを見下ろす橋に行ってみた。タカみたいなシルエットの鳥がいっぱいくるくる回りながら飛んでいて、時折水面にタッチする。魚採ってんのかな?

家に帰ってから調べてみると、ミサゴという猛禽類が魚を食べるらしい。写真では頭が白かったけど、現地でどうだったかわからない。写真撮ったけど全部茶色い感じ。

魚が得意な鳥らしい。猛禽類が魚を食べるというイメージがなかったので、驚いた。

 

パンは美味しかったけど、実はプチパンに髪の毛1本が入っていてびっくりした。そこだけ取り除いて完食。飲食業としてどうかなとは思うものの、いちいち文句を言おうとも思わない。ごはん作る人って大変だよな。私なんか服に髪がつくなん日常茶飯事だし、猫の毛にいたってはいたるところに入り込んでいる。飲食業で動物飼っている人はどうしているんだろう。必死でコロコロをかけたり、店用の服を準備して店で着替えたりとかしているんだろうか、と想像する。

もっと嫌だったのはクレープ屋さんで買ったパフェにの生クリームに入ってた髪の毛。ちょうど接客してくれたお姉さんの茶髪と同じ色。あちゃー、入っちゃったのね、と思いながら、やはり髪の毛を抜いて完食。生クリームの白に染めたらしい茶髪の茶が鮮やかで、今でも思い出せる。

自分で料理するときに気になるのはまつ毛の混入である。ご飯とかになんか小さい毛が入ってて、これは、まつ毛かな?と思うときがある。こういうの見ると、自分は飲食業は、辞めた方がいいよな、と思う。定食出すお店とか楽しそうとか、思うこともあるんだけども。まつ毛入ってたらお客さん嫌だよね。これの対策は、専門の方はどうしているんだろう、と日々不思議に思っている。

そういえば先日家の床を拭き掃除した。濡れ雑巾で。いつもは掃除機とフロアワイパーでからぶきするだけ。濡れ雑巾で拭くとなんだか輝きが違うし、細かいホコリが良く取れてやり切った満足感があった。またやろう。

実はやることがまだたくさんあって、でもやる気はないという状態。猫のケージを掃除したり、部屋の使っていない売れそうなお菓子缶を売りたいとか、あるんだけど。

ミニマリストではないけれども、今使ってないけどまた使いそう、と思って置いてあるものを、売るなり捨てるなりして部屋から排除したらすっきりしていいだろうと思う。

要るのは猫の物と自分の今使っているもの、一部の本と思い出の品だけ。あと、少しインテイリアに気を配れたらもっと良い。

実はもっとやらねばならないこともあるんだけど(おい)、それはやりたくなくてちょっと後回し。

今日はでも一つできたことがあって、お気に入りの神社へのお参り。先日近くを通ったけど行けなかったので、今日は貯水池に行く前に思い出して、お参りしてきた。

それからおみくじを購入して、結果は大吉だった。いいことありそう。

 

 

仕事は罰

今仕事していないのだが、傷病手当金やら、自分の預貯金やらでなんとか生活が持っている。自分は仕事していることを生きる免罪符にしているところがあって、だから、仕事してなくても、生きているじゃないか、と感慨深い。

 

仕事していることを免罪符にしている、というのは、嫌なことをいやいややるのが仕事だ、嫌なことをやって疲れているのだから、それ以外の時間では好きなことをやってもいい、という私なりの考えだ。

 

嫌なことをやる=仕事、つまり人生におけるペナルティである。なぜペナルティが課せられるかというと、自分が生きていてはいけない人間だからだ。

 

なぜ生きていてはいけないか。これは自分ではよくわからないのだが、おそらく幼い頃からの「ここじゃない」感とか色々言われたこととかに起因していると思う。

 

違和感があるのだ。学校でも違和感。会社でも違和感。集団生活は当然苦手だし、なんならいじめられたりいじられたり、無視することを覚えたが、それで負った心の傷が治るわけでもなし。

 

普通じゃないから、申し訳ない。普通じゃないから、恥ずかしい。そんな風に思って生きてきて、かろうじて『普通』の範疇にひっかかるのが、「仕事をして、経済的に自立する」ということだった。それを拠り所にして生きてきたのに、環境が原因で、仕事を休んでいる。だから、はしごを外されたような心地である。

 

まぁ、でもお金があれば生きていける。家はありがたいことに家賃がかからないし、あとは食費と日用品と猫費と老後資金の積み立てだけ。

 

このままずっと貯金を崩すわけにもいかないが、しばらくなら大丈夫。そう思うと、なんだか動けそうもない。

 

とりあえず、カウンセリング予約したので、受けてみる。一歩一歩、前に進む。

 

追記

仕事は、生きている自分への罰、という意識かもしれない。

なんか妙なこだわりだなぁ。だって、仕事してない人一杯いるよ?

定年退職した人、主婦・主夫の人、投資で稼いでいる人、ニートの人・・・。

無理しない範囲で働くパートの人も、フルで働いてないという意味では仕事している人と仕事してない人の中間位の立ち位置?

働いているときに、年金の試算をして、このくらいだったらやっていけるかも、と思ったのが65歳まで働いたパターンだった。それ以来、そこを目指して仕事してきたんだけど、燃え尽きちゃった。

無理して働くから、自分の場合5年から7年位で燃え尽きる。今まで出来てたことが出来なくなる。年数経つとどんどん他の仕事を積み上げられるんだけど、ずっと無理してたからしんどくなっちゃって、さらに積み上げてやることができない。

辛くなって辞めちゃう。あと、定年まで勤めるとか無理!と思って辞めちゃう。

 

ただ、他の人はそこまでしんどくなさそうなんだよね。だから自分が変なんだと思う。

 

セルフトラウマ治療と助けを求めること

BPS(ブレインスポッティング)治療について書いてある本を読んだ。

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現在訳合ってお暇中なのだが、ただ休息をとるだけでは、仕事に戻れる気がしない。

常に嫌なことを思い出したり、これからどうするのかなど未来のことを考えて、心が休まらない。そこで、いままでスポットをあててこなかった、過去の自分の傷つきへの対処が必要なのでは、と思ったのだ。重大な傷つきには専門家の助けを借りるつもりだが。

 

そんなとき、たまたま手に取ったのだが、軽度なトラウマ(日常の疲れとかもやもや)にはセルフBPSというのができるらしい。重大なトラウマは連想が止まらなくなったりして危険なので、専門家にお願いした方がいいそうだ。

 

まだ軽く読んだだけなので、間違っているかもしれないので、実際やってみようという方は、本を読んでみてください。

 

以下そのやり方(うろ覚え)。

①環境を整える

②体のリソースを見つける

③スポットを見つける

④スポットを見続ける

 

これだけ!

時間は10~15分でOK。

今日何度かやってみたけど、いままで悩んでいたことが少し軽くなったような気がする。過去のものになる。思い出さなくなる。これだけで心が軽くなるとは、お得だと思う。

 

考えてみればぼーっとして一点を見つける、というのは子供時代によくやっていた。

 

自分の部屋に早朝、自然の光が差すのだが、自分は布団に横たわっていて手を白い光にかざす。なんでやり始めたのかは覚えてないが、擦りガラス越しの朝の青い光が太陽が昇るにつれて、白く変化する。その様を美しいと思ったのだと思う。手を光にかざすと、複雑な陰影を持つ。手が、手ではないような、風呂の中にある足を見て、タコとかイカとかなんだか奇妙なものを見ている感じ。これは足なのか?それとも生き物なのか。

 

かざした手を丸めてキツネの影絵を作る。コンコンと、鳴かせる。

 

その時確かに、奇妙な充足感を感じていた。それが当時の軽度なトラウマ療法になっていたのかもしれない。

 

考えてみたら、今、嫌事を言われているわけではないのに、何度も何度も、何カ月たっても何年経っても思い出して一人見悶えているのは、なんだかオカシイ。相手はとっくの昔に自分が言ったことを忘れて、馬鹿話ししたり、「嫌なことを言われたら流せばいい」とか説教してくるのに理不尽だ。

終わったはずの嫌なことを、終わらせられない、それが、心の不調につながるんだな、と思った。

 

自分さえ我慢していれば、とか思ったり、忘れればいい、とか色々言われたりするけど、忘れられない、という事実がある。何度忘れようとしても、忘れられない。でもすっと思い出せない。自分が言ったことやったことも思い出せないことがある。人から指摘されたら、そうだっけ?と思う感じ。記憶の整合性が取れなくなってしまった。記憶が一貫して思い出せない、ということは、自分が自分ではない、過去からの一貫性が保てない、ということ。私は連続した私ではない、ということだ。

 

特に理解できない相手とかは、名前をすっぽりと忘れたり、時にはハサミで切り取ったみたいに、存在を忘れることがある。嫌なことを言ってきたり、してきた人もそう。

 

仕事をしているときは仕事や人間関係、それに伴う疲れや体調不良に気を取られて、整合性のことなどとんと気に払っていなかったし、余裕もなかった。でも、もういいんじゃないかな。助けを求めても。

 

もうできません。助けてください。無理です。

 

状況把握ができないのに、一人でもがいていても、どうしようもないのだ。

 

じゃあ、わかる人に、聞いてみたらいい。どう思います?とか普通はどうするんでしょう。どうすべきなんでしょうとか、ただ、嫌なんです、と訴えるだけでもいい。

 

精神科のお医者様には相談してみた。でもカウンセリングはやってみたことがない。

 

今までやってこなかった理由はお金がかかるから。どちらかというと胡散臭く感じていたから。そして絶対に泣くから。社会人として冷静に話をしたいと思ってやってこなかったけど、泣いても、話したうえでだんだんと冷静に話ができるようになるなら、その方がいいのだろう。

 

人生ほとんど半ばすぎて、やっと助けを求められるようになったのかもしれない。これからどうなるかわからないけれど、自分のこと。少しずつ理解して、生きていけるようになればいいと思う。

腹を決めただけ

休職中で非常に気弱になっていて、これからどうするか悶々と考え続けていた。出るわ出るわ、いろんな不調が表れて病院三昧。一番続いていたのが下痢で地味につらかった。だって水を飲んだだけで下すんだよ!

 

体は元気なのでお腹は空くし、だからといって普段と同じような感覚でたくさん食べたり飲んだりするととたんにトイレに駆け込むことになる。こりゃあだめだ、と思って薄いお粥を作ったり、パン食にしたりして、どの位の量までなら腹を下さないかを見極めたり、それに加えて市販の止瀉薬を使ってようやく止まったのだ。でも、薬を一度辞めたらやっぱり軟便になったので、今度はストッパを食後に飲んでいる。

 

以前過敏性腸症候群と言われたことがあって、その時はガス型だった。それも辛かったけど、何食べても水飲んでもお腹壊れるのは地味につらい。そしてその時も「ストレス」が原因と判断されて、結局治った決め手はおそらく時間と、そのストレス源であった無理してやってた仕事を辞めたから。

 

今回は食物繊維をとらなきゃ!と思って頑張って食べていたのと、連日の猛暑で冷たい水を飲みすぎたらしい。たぶん。そしてストレス。適応障害なんだからストレス掛かっていて当たり前だよね。夜中もこれからどうするか考えて起きちゃうんだよ。そしていわずもがな、昼間もずーっと考え続けている。置いてきた職場の仕事や同僚のこと、上司のことも考えている。それで胃腸がやられたんだと思う。

 

しばらく休職していたんだが、そろそろ退職を考えないといけないかと思えた。今日初めて。今まではこの会社で定年近くまで働いてお金を貯めるんだ!という予定というか目的があったので、それを壊すことになるのが耐えられなかった。そして五十路にそろそろ首を突っ込もうかというときの転職。どうなるんだろう。そもそもどこも採ってくれないんでは、とか不利な条件なのでは、とか、いっそ人の言うことを聞くのが嫌なら起業するか?何するんだ?とか色々考えすぎていたのだ。

 

でもきっかけは猫の便秘だった。猫が便秘して、そのあと初めてしたのがコロコロうんち。いいうんちではない。今までは健康に気になることがあればすぐ病院に連れて行っていたのに、減り続ける貯金が心配で先の伸ばしにしようとする心理に気づいて嫌になった。恐らく原因は今食べているフード。以前のフードに戻すことにした。

たったそれだけ。あー、もう潮時だな、退職の連絡を近いうちにしよう、と思えたのだ。

 

稼がないといけない。猫養っているんだから。それだけの話だった。

 

今の会社にいると、病気のままだと、稼げない。今の会社が病気になるほど合わないなら、そこにいる人がどんなにいい人達だろうと、それは潮時なのだ。

 

まだ連絡はしていない。でも腹を決めた。それだけでちょっとだけ、心が楽になった。

読了『会社を綴る人』朱野帰子

「どんなにつまんない取り柄でも一つでもあれば、会社でやっていけるもんだ」

 

 そんな兄の言葉に押されて、主人公の男性、「紙屋(かみや)」は30代にして初めて派遣社員から製粉会社の正社員になった。

 彼は転職エージェントから紹介されていた製粉会社の社史を手に入れたが、それがとても面白く、履歴書へその熱い思いをしたためると、見事書類選考を通過。

 その後、社内で同僚に煙たがられながらも、社内メール、営業提案、議事録、社長スピーチとどんどんレベルを上げていく。ただし、他のことはからっきしなのだが・・・。

 通常「仕事」と言われる事務作業や電話応対にも困る始末だが、文章に対してだけは、一芸に秀でていた「紙屋」。最後は反目してきた女性同僚との進展を期待させつつ、話は終わっている。

 

ネタばれと感想

 いわゆる仕事ができない人のお話なんだけれども、本人がいじけつつも、変に性格がこじれていないので、読みやすい。また、上司や同僚のため、うそをつきたくないと筋を通す姿に、心打たれる。最後に仕事を辞めてしまうんだが、人間関係は継続しているようだし、今後、文章にかかわる仕事に進むのではないかと期待させてくれた。

 

本を選んだ理由とお勧めの訳

 タイトルの「会社を綴る」に惹かれて手に取った。また表紙もあっさりとしてよい。自分が休職中なのもあって、仕事について考える系統の本を手に取ってしまったのかも。主人公の家族も温かいし、同僚も全体的に「悪」と言える人がおらず、猫にさえ配慮が行き届いている。安心して読めると思う。